生きる意味って、必要ですか?

久しぶりに、Twitterのハンドメイドのアカウントを見てみたら、一ヶ月くらい前に初めて関わる人からメッセージがきていた。
今回は、それを読んで考えたことや思い出したことを書こうと思う。

「目が見えない、耳が聴こえない状態になってまで生きる意味とは?」

本当はメッセージ本文を全文載せたいところだけど、送信主さんのプライバシーもあるしこの投稿を見られているかもしれないので、大まかな内容だけ載せる。
見出しのタイトルだけを見たら、「中傷コメントが来たということなのか?」と思われそうだけど、そうではない。
メッセージをくれたGさんは、私のブログを通して視覚障害者や白杖の存在を知るきっかけを得て、街中で白杖をついている人を見かけたら見守るようになったと書いてくれた。
決して、中傷コメントではないと思いたい。
けれど、私はメッセージを読んで胸が痛くなった。

メッセージの内容は、大まかに言うとこうだ。
「私は酷い家庭環境で育ち、人からは利用されて捨てられるばかりで、生きる意味が見出せない。好きなことを見つけて打ち込んできたけどそれも結局は辛い現実から逃れるためだった。
今は年下の兄弟に迷惑をかけないために生きて働いている。
沖縄に引っ越してきて、沖縄を死に場所にしたいと思うくらい 好きになった。ネットで沖縄のことを調べていたら、たまたまもえさんのブログ記事を見つけて、視覚障害のことや白杖のことを知り、街で白杖を持った人を見かけると安全に歩けているか見守るようになった。
そういう状態でも生きている人がいると知り、少し元気をもらった。見下してはいなくて尊敬している。
今の自分は精神以外は健康だけど、もしも今から体に障害を持ったら生きていける気がしない。もしも目が見えない、耳が聴こえない状態になったら反骨精神を持って生きようと思えない。
もしよければ、もえさんにとっての生きる意味を教えてほしい」

「もえさんの生きる意味とはなんですか?」という問いに対して、
私はこう返した。
「私のブログを読んで少し元気をもらった話や街中にいる視覚障害者を気にかけるきっかけになった話は、嬉しく思います。
生きる意味は私にも分からないけど、とりあえず生きています。私は、生きる意味とか考えたら辛くなるから考えるのをやめました」

だって本当にそうとしかお伝えできないから。

見下してはいない、とGさんは言っているし、本人もきっとそうだと考えているはず。
だけど、根底には「そんな苦行のような状態でよく生きていられるね。自分なら無理」という考えがある。
厳しい言い方だけど。
先に弁解しておくと、Gさんだけが悪いと言いたいのではなくて社会全体のおそらく大多数の人はこういう風に考えないと生きづらいのかもしれない。

生きる意味って必要?

Gさんとは違う状況、違う言い方だけど、私のブログを読んでこんな感じのことを伝えてくる人は今までにも何人かいた。
「目に見えない障害や、困っているのに障害者手帳を取れなくてあなたより大変な人がいる」というニュアンスを含んだ話とか、「頑張って生きておられてるのを見て感動しました」というような話をされるのだ。
話ができそうな相手であれば、気を使いながらやりとりをしてきたつもり。相手がどんな風に受け取ったかは分からないけど。

私は神や仏ではないから、正直言うと「何? 嫌味かよ。うるせぇよ」とか、「私はあなたを感動させるために生きてる訳じゃない」とブチギレたくなることもある。
だけど、こういう話をしてくる人たちに共通しているのはそれぞれに重い事情を抱えていて、生きづらそうということ。
Gさんみたいに「何のために生きてるんだろう?」と問い続けている人もいる。
だから、私を追い詰めたくてそういうことを言ってるわけではないのだと信じている。
私の投稿もまた、その人たちの神経を逆撫でしているかもしれないし。

今回Gさんのメッセージを読んで、「生きる意味って必要なのかな?」と、改めて考えてみた。
やっぱり「生きる意味」なんて必要ないし、言語化できなくてもいいという結論に行き着く。
あえて言うなら、生きたいから生きてるし、死ぬのが怖いから生きている。

「生きる意味」という言葉は、テレビや新聞記事、本などのメディア上では「障害」、「病気」、「いじめ問題」、「自殺問題」などの言葉とセットで使われることが多い。
綺麗な言葉に思えるし、生きる意味が見つかった人は幸福だと思う。
でも、「やりがいを感じるからこの仕事こそ私の生きる意味だ」、「これが好きだからこれをすることこそ私の生きる意味だ」って一生思い続けることなんてできるのだろうか?
病気や事故や大切な人との別れなど何が起こるかわからないから、それができなくなることだってあり得る。
私も、思い返せばそう言うことが何回もあった。

「生きる意味」っていう言葉は、自分のことも他人のことも縛るし命を大切にしなくてもいい理由を探すことにもつながると思う。
「労働力やお金という客観的に分かりやすい形で生産性を示せない人、過酷な環境に置かれて弱っている人は、生きる意味を見出さないといけない」っていう考え方は、すごく残酷。

生きる意味を客観的に示さなければいけないというのは、強迫観念。
突き詰めていくと、性的マイノリティーへの差別発言が問題になった国会議員の杉田なんとかや、津久井やまゆり園で大量殺人を犯した上松なんとかみたいな考えに行き着くと思う。

やりたいから、やる。
やりたくないから、やらない。
やらないといけないから、やる。
太陽の光を暖かいと感じる。
風が気持ちいいと感じる。
ただそこに生きてる。
生きるならできるだけ苦しみは避けて通りたい。

ってことで、いいんじゃないだろうか?

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